地域資料で調べよう!さがそう 浦安の成り立ちと歴史 〜「堀江ねこざね」からわかること(第1回)
1889(明治22)年4月、当代島村、猫実村、堀江村の3村が合併して、浦安村になりましたが、浦安になる以前は、どのような地域だったのか、「地域資料」で調べてみましょう!
「地域資料」とは、浦安の歴史や文化などについて書かれた資料(図書や地図など)で、町や市が編纂した『浦安町誌』や『浦安市史』、地元の方が著された昔話などがあります。
このページでは、浦安市立図書館が所蔵する地域資料を用いて、浦安の成り立ちについて、調べてみます。また、地域資料だけでなく、他の所蔵資料や国立公文書館がインターネットで公開している古地図も活用しました。
<全4回>地域資料で調べてみよう! 「浦安の成り立ちと歴史」(第1回)
この連載では、主に江戸時代までの浦安についての概要を、図書館の本の内容やインターネットで閲覧ができる画像を組み合わせて、調べました。図書館の本の内容をご紹介する意味もあり、参考にした本の文中からの引用を多く使っています。また、使用している画像は、国立公文書館デジタルアーカイブの[デジタル画像等の二次利用について]と国立国会図書館イメージバンクの[電子展示会利用規約]に基づいて、掲載しています。
*図書は『』、地図や版画は<>、図書に収録されている項目や見出しは「」、引用部分は
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*文中の元号に続く括弧内は、西暦表記です。(例、正応6年(1293年)の1293年は西暦)
*文中の『』で表示されている図書のリストは、こちらからご覧いただけます。→この連載で使用する参考図書リスト→<参考図書リスト>
〜第1回 古代から中世〜
最初に、『浦安町誌 上』を見てみましょう。p.3の「本町の変遷」によると、浦安では、保元2年(1157年)には既に部落が形成されていた。
とあり、人口は少なく、塩を焼き、魚介類をとるかたわら、田畑を耕し、生業としていた
と書かれています。保元2年は、今から、約870年前の平安時代後期、源氏と平氏の争いの中で平氏が台頭してきた頃です。町誌には、これ以前のことについては、記録や言い伝えがないためか、記載がありませんでした。
■鎌倉時代以前
浦安は、行徳と地続きなため、市川市発行の『市川市史 第一巻』でもさがしてみます。第一巻の副書名は、「原始・古代」で、行徳地域の地質について、詳しく書かれていますので、少し長いですが、そのまま引用します。p.46に、江戸川の河口では、海岸線が大きく南に突出している。この江戸川左岸に沿っては、江戸川放水路が江戸川から分岐する大和田付近から稲荷木-下新宿-本行徳-伊勢宿-欠真間-新井にかけての行徳街道沿いに、幅200〜300m、高度2〜3mの微高地が発達する。これに対比できるものは江戸川右岸の東京都江戸川区の小岩-篠崎-今井間にもみられる。これらの微高地はその分布、形態からみて、明らかに江戸川の作った自然堤防である。
、行徳から浦安にかけての地帯では、江戸川と東京湾のほぼ中間に、土地利用の差によってわずかに認められる微高地として連続する。この高まりは、海岸の砂が磯波の作用によって打ち上げられた浜堤である。
とありました。
このように浦安を含む行徳地区は、江戸川と東京湾にはさまれ、砂が堆積した地質であることがわかります。このため、海抜が低く、長い間に渡って、津波などの水害に苦しめられてきました。
さらに、調べるために、『詳細 行徳歴史年表』を見てみます。p.33によると、大化の改新の頃の「白雉(はくち)元年 庚犬(かのえいぬ)(650年)」に、この頃、総(ふさ)の国は上総、下総に分けられ、下総国府が国府台(市川市)に置かれる。行徳はまだ海の底か、葦や萱が生い茂る湿地帯だった
とあるので、浦安も、同様であったと考えられます。そして、この当時、浦安と行徳、そして現在の東京都江戸川区の葛西あたりは、下総国葛飾郡に属していました。
次に、この下総国について調べるために、『角川日本地名大辞典 12 千葉県』を見てみます。p.440の「しもうさのくに 下総国」によると、下総国は、大化年代(645〜650年)に統一され、現在の千葉県北部・茨城県南部・埼玉県西部・東京東部を含む
とあります。昔の浦安と葛西は、下総国に含まれる地域のひとつで、この当時は、江戸川が国境(くにざかい)ではありませんでした。では、江戸川が国境(くにざかい)になるまでは、下総国と西側の武蔵国の国境は、どこだったのでしょうか?『日本古代史地名事典』p.242の「下総国 しもうさのくに」によると、西は利根川、隅田川を境として武蔵国と接し
とあることから、現在の都県境(江戸川)よりも、西寄りだったことがわかります。
ちょっと一服
江戸川は、江戸時代以前は、何と呼ばれていたのでしょうか。『角川日本地名大辞典 12 千葉県』では、p.161の「えどがわ 江戸川」に、古くは渡良瀬川(わたらせがわ)の下流で太日河(ふといがわ)と呼ばれていた
とあります。また、『江戸川の社会史』p.81,82によると、平安時代に菅原孝標女によって書かれた『更級日記』や、鎌倉時代の僧、仙覚(せんがく)によって書かれた『万葉集注釈』にも、「ふといがわ」の名が出てくるようです。
■鎌倉時代以降
古くは渡良瀬川(わたらせがわ)の下流で太日河(ふといがわ)と呼ばれていたとあります。また、『江戸川の社会史』p.81,82によると、平安時代に菅原孝標女によって書かれた『更級日記』や、鎌倉時代の僧、仙覚(せんがく)によって書かれた『万葉集注釈』にも、「ふといがわ」の名が出てくるようです。
■鎌倉時代以降
『浦安町誌 上』p.5によると、永仁の大津波によって、多数の神社、仏閣、民家などが流失したようです。特に当代島では、十戸全て流されてしまったと言い伝えられています。
永仁の大津波とは、正応6年(1293年)4月に発生した鎌倉周辺を震源とする大地震(鎌倉大地震、永仁関東地震)が引き起こした災害です。そして、この津波で大きな被害が出たため、『浦安町誌 上』p.4の「猫実村」によると、豊受神社付近に堅固な堤防を築き、その上に松の木を植え、津波の襲来に備えた。
、この松の根を波浪が越さじとの意味から「根越さね」といい、それがいつの間にか猫実と称されるようになった
とあります。浦安では、このような水害に幾度も見舞われてきました。
それから約250年後、『浦安町誌 上』p.4の「堀江村」によると、足利氏の末世弘治年間(1555〜1558年)に津波のため漂没するところとなり、村民は住居を江戸に移し、中央区堀江町に居住し、小網町を網乾場に使用するようになった。
とあり、またしても大きな水害にあいました。
この東京都中央区の堀江町は、現在でもあるのでしょうか?最新の地図で探しても、みつかりませんでしたが、『幕末明治大地図帳』で探したところ、p.105(Fの4から5)で、日本橋区小舟町や小網町に囲まれて、堀江町が見つかりました。もう少し、詳しく調べるために『東京町名沿革史』をみると、p.57の「小舟町1丁目」に、昭和7年9月1日に小舟町が堀江町を併合した。
とありました。さらに、読み進めるとp.58に堀江一丁目は徳川入国の後、此地を漁父堀江六郎に給わし、魚物の供進を司らしむ。後市地となすに及び此称を加ふ。
とあります。この人物の先祖が、堀江村の出身だったのかもしれません。
第2回は、江戸時代の浦安について調べます。江戸時代になると、絵図や文書、浮世絵などで浦安のことがうかがい知ることができるものが、いろいろ出てきますので、これらをご紹介しながら、調べを進めていきます。
第1回 掲載:令和5年12月10日